随分昔の話だが、筆者の知り合いのジプシ-(インド北西部から流れ流れて1400年代初頭スペインにやって来た異民族:特に南部アンダルシア地方に移住した連中がフラメンコの創始者となった)にアホな奴がいて、免許を持ってないのに中古車を買った(売る方も売る方だが、現在この国を走る6台に一台の車は無免許!? 日本人には漫才としか思えないが、全くの実話)。ところが、すぐに奥さんが急病になり、買ったばかりの中古車で救急病院に最初から最後までロ-ギアでぶっ飛ばし、可愛そうにエンジンは一晩でオ-バーヒ-ト。読者は笑っているかも知れないが、意外とこんな人生を送っている人が多いのは、特に頑張る国民性の日本人に多いのではないだろうか?
人生何をやってもロ-⇒セカンド⇒サ-ド⇒トップとギアを上げて行くのが成長や上達のあるべき過程と言えるのかも知れない。ギタ-に限らずどんな楽器でも上手い人ほど最小の力で最大の音を出すトップギアの運転の様な演奏をしているものだ。
とこんなことを考えていると、先日50半ばにして理想を達成したが故に、燃え尽き症候群に陥ったと言うある日本人の手記をこちらで手にした少々古い日本の週刊誌で目にした。筆者はこのジプシ-の知り合いの話を聞いて以来、常々燃え尽き症候群や過労死とは万年ロ-ギアモ-ドの真面目人間が犯す過ちだと思っていたのだが(しかも、日本では周囲も皆良く頑張ったと却って褒められる!?)、どうやら例えトップギアで快適に走っても、目的地に到達して次の目的地が見つからなければ、それもまた燃え尽き症候群と言えるのかと今回ちょっと考えさせられた。もちろん、目的地まではロ-ギアよりトップギアの快適なドライブの方がいいに決まっているが・・・。
愛は結びの帯として完全なものです。-----或る昔の偉い人
何か好みの目的を掲げ、それを達成し、また次の目的地へ・・・。人の一生とはこう言うものかも知れません。しかし、達成したつもりが、実は途中経過地点であったのなら、それは最終的な目的地ではなく、途中の一里塚だったと言う方が当っています。
しかし、実際の人生では一里塚さえ到達出来ず、方向転換を余儀なくされ、脇道に逸れ、人生の脇道にも逸れ、とんでもない所に行ったり、別の町に着いたり、迷って座り込んだり・・・。結局、まあこれでしょうがないかと、不本意ながら当初の目的のレベルを下げて妥協するのが多くの人の我が道かも知れません。それに引き換え、この人は50半ばで若い頃から描いていた理想を達成・・・しても燃え尽き症候群だと告白するのですから、多くの場合この理想とやらも結局一里塚に過ぎないのかも知れません。
確かに我々の周囲には目的を達成して有意義で幸せな人生を送っている様に見える人もいますが、達成し得なかった我々その他大勢も含めて、広い意味で世の中の多くの人には共通点がある様に思われます。それは“私の目的は~”と言うことです。もちろん、無気力無感動人間より目的を見据えて努力する方が遥かに人生として魅力的ですが、主語が“私が~”、或いはせいぜい“私の家族のために~”なら、どこまで行っても今度はこれ、次はあれと言う、広い意味での自己中心一里塚人生には違いありません。しかも、いつまで経っても欲望の一里塚の連続で、ましてや、最初から真の目的地などなかったとすればこれは悲劇です。
そして、愛とは元来自らではなく、まず隣人に向かうべき性格のことばであると認識し直せば、そして、それを人生の旅路の方向性と位置付ければ、一つ一つの一里塚にも必ず一過性以上の人生の意義が見出せるはずです。
2008-04-14
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